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2010.01.17

1995年1月17日午前5時46分

2010011711090011995年1月17日早朝、午前5時46分まであと少しという時刻に、当時O阪大学の大学院生だった私は、大阪府池田市内の文化住宅の一室で目をふと覚ましました。前の晩、奨学金の面接のために出かけていた東京から戻ってきたばかりだったので、寝坊することはあっても、ひとりでに早起きするはずはありませんでした。今にして思えば、その時目を覚ましたということがすでに前触れだったのでしょう。

その直後のことでした。私はそれまでに経験したことのないほど大きな地震に揺さぶられました。

私は東京と埼玉で高校までを過ごしたこともあり、それなりに大きな地震の揺れは何度も経験したことがありました。そして、新宿にあった母方の実家で祖母から関東大震災の話を直に聞いていたので、地震に対しては慣れているはずでした。その私が感じたのは、その時の地震の揺れがそれまでに経験したこともない大きなものだということでした。

そういう思いがあっただけに、自分がその時に経験した以上の揺れが、まさか神戸で起きていたなどとは想像もしませんでした。地震の直後はテレビやラジオを見ても、具体的な情報は伝わって来ません。関西地方を中心に非常に大きな地震があって、神戸市内では火事が起きているところもある。そんな程度の断片的な報道が多分6時半すぎぐらいまでは続いていたのではなかったかと思います。

というのも、親にとりあえず連絡しておこうと思い、父親が出勤で家を出る6時半ぐらいなら、母親も起きているだろうと実家に電話をしたものの、言えることといえば、「さっき大きな地震があった。多分そっちのニュースでもやると思うけど、ぼくのところは特に何もなかったから心配しなくていい」この程度だったからです。とりあえずそれだけ伝えて電話を切りました。電話を取った母親も二度寝したところだったのか、そんなことでわざわざ電話してこなくてもいいからという感じの話し方だったのを覚えています。

それから後のことは皆さんがご存じの通りです。その後、母親もテレビのニュースで被災地の様子を見て、これは只事ではないと、私に何度も電話をかけようとしたそうです。でも、電話が殺到してなかなかつながらなかったとのこと。確かつながったのは10時過ぎてぐらいだったかと思います。

私が住んでいた池田市は、被害の大きかった神戸市内からは20kmちょっとという距離でした。幸いなことに私のところには被害といった被害はありませんでした。強いて言うなら住んでいた文化住宅の屋根の瓦が1枚落ちていたことぐらいでした。それだけに、近くに住んでいた友人や後輩のアパートやマンションが全壊しただとか、神戸ではもっともっと大きな被害が出ただとかいうことが、頭では理解できても、そのことを実感をもって受け止めることができませんでした。

今でも、地震のあった日の昼、アルバイトに出かけた際に阪急の梅田駅で見た光景を忘れることができません。宝塚線、京都線のホームは前日までと同じ光景なのに、三宮方面へ行く神戸線のホームには、買い出し帰りの被災者の方々でしょう、溢れるほどの人で一杯でした。

そういう光景を何度か見て、また直接被災した友人・知人の話を聞いていると、私も人並みに、自分は震災前までと変わらない日常生活を送っていていいのかという違和感を感じました。だからといって、被災者の方の役に立とうと直接行動を起こしたわけではありませんでした。私は、ただ近くで傍観者として目撃していただけでした。そして、震災から15年経った今でも、自分も一緒にあの地震を体験したはずなのに何もしなかったという、後悔とも、申し訳なさとも何ともつかない思いに駆られることが時々あります。

実は、震災からちょうど15年になるこの週末、縁あって神戸に来ました。神戸で開催されるアジア防災会議と日程を合わせて開催されるアジア情報技術フォーラムのモデレータをするためです。震災15年目にして初めて追悼の場にも足を運ぶことができました。

毎年開催されるこの会議の今年のテーマは防災とITです。もちろん、この会議のモデレータをするからといって、私が15年感じてきた胸のつかえが取れるわけではないでしょう。でも、そういう思いをもち続けてきた私にこのような役割が与えられたことは、きっと何かの巡り合わせだと信じたいという気持ちで一杯です。そして、会議に参加しているアジアのIT政策関係者の人とこの問題について一緒に考えることができれば思います。今の私だからできることがきっとあるのだろうと思います。

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